私の念願
一
「近頃は宗教に関するものは書かないのか」とよく聞かれる。今までの私の
著書の殆ど凡ては宗教真理を取扱ってきたからである。私はいつも答える。
「今している仕事もその一部のつもりなのですが」と。私は近頃美の世界、
特に工芸の世界に就いて多く筆を執るため、何か宗教のこととは縁が無くなっ
たようにとられる。表面そうとられても致し方ないが、私の念願は前と変わっ
てはいないのである。
私が一生かかってやりたいと思う仕事、やり甲斐があると思う仕事、又私
に適していると思う仕事は、やはり宗教真理の探求である。これが私の生涯
を通じての動かない願望である。私はこのことに対して私が日本に生まれた
ことをどこまでも感謝したいのである。何故なら日本人ほど宗教真理の探求
に対して恵まれた境遇にいる者はないと考えるからである。日本の状態は世
界史を通じて真に稀有な場合であると思える。私達は多く西欧の文化の影響
を受け、一つの精神的要求として基督教を新鮮な気持をもって受容れること
が出来たのである。だが同時に長い間の伝統によって仏教の血を承いで生ま
れている。大乗仏教が日本に於いて最もよく生きている事実は誰も知ってい
る。それ等の二宗は真理の宝庫である。聖書と仏典とを共に読み得ると云う
ような日本人の教養、そうしてこの二大宗教が共に並在して活々としている
国土、偏見なくしてそれ等のものを考察し得る吾々の位置、東西がかくも密
接に邂逅している事実、こんな場合は世界に類例がないと云っていいのであ
る。私はこの異常な歴史的の恩寵を自覚すべきが日本に於ける凡ての宗教哲
学者達の任務であると考えるのである。何故ならかかる立場に於いて宗教を
省み得る特権は嘗て許されず又将来に於いても他国の人には許され難いから
である。今の日本の宗教哲学者の多くが西洋の宗教哲学をそのまま踏襲して、
東洋の宗教経験を等閑にしている場合の多いのを私は甚だ不満に感じる。維
摩経とか碧巌集とかあの歎異鈔とかが、西洋の宗教哲学者に原文で読めない
のかと思うと、実に気の毒な気さえする。それは日光の廟やナイヤガラの滝
を未だ見ないどころのことではない。
歴史だとか習慣だとかからすれば、仏教や基督教や回教や、又それ等の中
の各宗派は、お互いに甚だしく違う。教義に於いても又礼式に於いてもその
間に著しい差異が見える。しかし幸いなことに宗教的経験に於いては何れも
深く共通する所がある。外面的なことでは相違しても内面的なことでは一緒
である。私はこの宗教経験の内面に普遍的な宗教的原理を捕らえ得るものと
考えている。宗教哲学と言うからには、その真理には普遍性がなければなら
ない。例えば基督教だけに当てはまると云うことに真理が止まるなら、哲学
としては不充分である。
宗教には色々の流れがあるが、特に私が興味をもっているのは所謂「神秘
道」Mysticismである。大体東洋の宗教は神秘道を選んでいるが、回教に於
けるスーフイや基督教に於ける中世紀の様々な神秘思想は私の心を最も強く
惹いている。なぜそうかと云う理由を私は二つ数えたい。第一には宗教的経
験の極致は神秘道に帰るからである。第二には凡ての信仰に共通なものがそ
こに現れるからである。それで普遍的な宗教原理は神秘道に於いて最も明確
に見出し得ると云うのが私の信念である。宗教的真理の探求には神秘道への
考察が絶対に必要なのである。凡ての宗教的真理は奥義である。それで神秘
道の研究は私の永らく抱いている宿願である。このことに対して支那及び日
本で発達した大乗仏教、又基督教の中でも公教、中でもその黄金時代である
中世紀の神秘思想が、豊富な具体的材料を与えてくれるのは言うを俟たない。
将来の宗教哲学は神秘道を等閑にしては成り立たない。これが私の信念であ
り予告である。これまでスコラ哲学は馬鹿にされていて、哲学と云うとデカ
ルト以降と思っているが、少なくとも宗教真理に関する限り、「デカルト以
前」と云う声はきっと放たれるであろう。
二
しかし私は宗教の問題に関連して、もう一つしたい仕事がある。それは宗
教原理をもっと突き進めて、美の問題に当てはめたいのである。私の考えで
はものが宗教的になる原理と、ものが美しくなる原理とは一如であって、異っ
た法則の許にある二つの相反する出来事ではない。私は概念的にしか、ある
べきだと云うのではなくして、美を見、その性質を想う毎に、宗教と同じ法
則がその世界にも流れていることを気づかないわけにはゆかない。この真理
は将来もっと深く考察されねばならないと思う。それで私は近頃美の世界に
多く頭を向けてはいるが、何も宗教と縁のない仕事をしているのではなく、
その継続に外ならないのを知ってほしいのである。これ等のことは今まで誰
からも充分語られたことがないので、出来ることならその仕事を背負いたい
と思っている。
大体最も高い宗教時代は同時に卓越した芸能の時代であった。高い美の表
現を伴わない高い信仰と云うことはあり得ない。だから逆に信仰が弱まれば
美も亦薄らぐのだと省みていい。かく考えると現今の宗教は、何か不自然な
状態に在るのだと云えないだろうか。又現在の芸術だとて何か確かな基礎を
欠いているのだと云えないだろうか。信仰と美との離反は社会にとって大き
な不幸と云えよう。
造形美の世界を論ずる時、今まではきまって美術の領域がその対象とされ
た。しかし私は主に工芸の世界を対象としたいと考えている。もっと進んで
は工芸を対象とすべきが当然だと言うことを明らかにしたいのである。この
問題は大きな問題であり革命的な意義さえあるから、ここに簡単に述べるこ
センメイ
とは出来ないが、私は今後この真理を漸次に闡明してゆきたい考えである。
それで、私が為したい仕事の一つは工芸と美との間に結ばれる深い関係、
言い換えれば或ものが美しくなると云うことは、それが工芸的なものになる
と云うことを明らかにしてゆきたいのである。工芸は美の領域では下積になっ
ていて、低い位置より与えられていないが、私はそれが有つ重要な意味に就
いて、輿論を喚起したい考えである。このことは私が知る範囲ではまだどん
な美学者からも明確に主張されたことがない。美術至上時代では到底考えも
つかないことに思われているからである。
工芸と云うのは美と生活との結合したものである。誰も知っているように
用途を有つことがその特質である。今までは美を現実から遊離した理想の世
界にのみ描いていたから、用途と云うが如きは下品な低級なものと簡単に片
附けられていたのである。しかし用と交る美の意義に就いて、生活に即した
美の価値に就いて、もっと温かい又徹した考えを私は要求したいのである。
このことは美の問題への新鮮な一課題であると考えている。
且つ美術は個人主義の許に発生して来たが、将来の人類の理念にとって、
非個人的な工芸、即ち協力の工芸が一層重要な意義を齎らすと云うことを予
告するのは、決して無謀な空想ではない。美の問題に於いて特に私が工芸問
題を、取り扱うに足りる仕事だと考えるのはそれ等の理由にもよるのである。
三
私は作家には生まれていない。自分で何か美しい品物を産めるなら、どん
なにいいかと考える。しかしこのことは天分に依るのだから何とも致し方な
い。それは自分に与えられた道ではないことが分明である。試みればしくじ
るにきまっている。美しい品を見ると余計な議論などせずに、黙ってこんな
作品をこの世に遺せたらと思う。しかしそう言う愚痴が私に何ものをも産む
わけではない。そんな咏嘆はやめて運命が与える道を悦んで受けたい。作家
として生まれなかったと云うことに、何か特別の意味があると考え直す方が
いい。道は唯一ではないのであるから、違う道を見出して積極的にそれに働
きかける方が、本筋の行為である。そう私は思う。
だが私がこの世で為たいと念願することは何か。作家は作物でこの世を美
しくしてゆくが、私は別の道でこの世を美しくしたいと思うのである。これ
は人間として慥かに為し甲斐のある仕事の一つである。
この世を美しくするのに、私にどんなことが出来るか。又どんなことをし
たらいいか。私は色々な仕事を試みたいのである。
第一美しさとは何なのかと言うことを考えぬきたい。美しさにも色々種類
はあろうが、中で本当の美しさとは何か。若しこのことがはっきり掴め、そ
れを筆に書き現すことが出来たら、この世を少しでも美しくしたいと云う念
願の一部は充たされるであろう。なぜなら何が美しいかを知らないために、
間違ったものが美しいとされている場合が非常に多いからである。同時にこ
れがために正しい美しさが見失われる危険が充分あるからである。
尤も美とは何かと云うことは哲学上の千古の問題であって、簡単に説き尽
くすことが出来ない。しかし美の問題を取り扱うには二つの道があって、理
論に基礎を置く道と、直観から出発する道とがある。そうして私の考えでは
美の問題が今日紛糾するのは、主に概念の道から論じ立てられ、為に直観が
蔽われて、真理の姿が見難くなったのではないかと思う。それで美しさを解
する上に、私がとりたいのと思うのは、概念から直観へ行く道ではなく、直
観から概念に進む道、即ち分析を後にして綜合を先にする道をとりたい。こ
れは現代に最も欠けている点だと言えよう。詩人ブレイクが合理主義の時代
に、特に「想像」'Imagination' を要求したのも同じ意味があったろう。
それ故、美の問題と直観の問題とは密接な関係があると云うことを明らかに
することも一つの重要なことになるわけである。
ついでであるから、ここに予々考えていることを言い添えておきたい。日
本の現在の美学は全く西洋のものである。体系的に記述することが東洋では
少なかったから、学問的な形をとると、そうなるのは止むを得ぬかも知れぬ
が、しかし美学をもっと東洋人の直観の上に建設させたら、徒らに西洋の糟
糠を嘗めずにすむ筈である。例えば画論の如き茶道の如き異常に発達したも
のが一方にあり、美の歴史に於いても豊富な材料をもっている東洋は、独自
な美学を充分に持ち得る筈である。宗教哲学に於いても同じことが云える。
吾々に東洋の自覚が少なく、且つ直観を等閑にする結果、今日のような状態
に止まっているのだと思う。吾々は東洋の美学を建てる任務がある。この方
が遥かに世界に寄与する所が大きいだろう。東洋の作物に無関心な美学者が
中々多いが、甚だ残念である。西洋人からすれば我田引水と云われるかも知
れぬが、吾々東洋人は美しさに就いて、独自の深い経験を有すると信じる。
「渋い」と云うような美意識が他のどこにあろうか。
率直に言うと、私は美が解らないで美を詳しく論じる美学者が多いのを遺
憾に想うのである。この世には絵画が見えないで、絵画史を書き絵画の良し
悪しを論じる人が相当に多い。それは直観の欠乏から来る悲劇だと思う。美
を詳しく論じると云うことと美が分かると云うこととは別でいいのだと云っ
て了えばそれまでであるが、かかる考え方にはどこか嘘があろう。シェーク
スピアの英語が詳しく分かれば、シェークスピアが分からなくてもいいと云
う言い方と同じである。美が分かっていなければ、本当の美学は組み立てら
れないだろう。見当違いなことを論じて了う危険が十二分に潜在するからで
ある。もっとも美が分かっていて美学を知らない人は沢山ある。それはもと
もと美を論じようとする人でないから別問題である。しかし美学が美への理
解であるからには、概念的理解だけでは不充分である。それで私は出来たら
直観に基づいて美とは何なのかを語ってゆきたいのである。
それ故、私は私の直観があらゆる意味に於いて純粋に働き得るようにせね
ばならない。直観力を邪魔するものが、この世には中々多いからである。直
観と云うのは平たく云えばぢかに美を観る謂である。自分と物との間に介在
するものがあっては、直観が曇る。
しかし美しさとは何かと云うことを、仮りに直観に出発させ、それを分析
し理論づけた所でそれで終わるわけではない。まして一つの知的体系に導く
ことは容易な仕事でない。認識論とか形而上学とかに関係し、一生このこと
に没頭しても、充分な収穫を誰だって予期することは出来ない。恐らく美し
さの片鱗を描き得るに止まるであろう。
四
それで私は私の念願を更に充たすために次のことを試みたい。第二にはど
んなものが美しいのかを、「物」に即して指摘したい。美しさとは何かと云
う問題を抽象的と呼び得るなら、この第二の方は具体的である。物に就いて
語るのである。このことは必然次の二面の内容を含んでいる。どんな物が美
しく、又どんな物が醜いかと云うことである。醜い物を指摘することは余り
興味がないが、これも消極的には価値がある。特に美しい物が虐げられ、醜
バッコ
い物が跋扈しているような時は、黒白を明かにする必要が生じる。どんな物
が美しいかと云うことは一見すると簡単なことのようだが、案外多くの美し
い物が見忘れられ、見誤られているものである。気がつかないならまだいい
が、美しい物が、馬鹿にされたり悪く云われたり軽蔑されたりしていること
が少なくない。
物の美しさに就いて語る時、二つの場合が考えられる。一つは、今まで美
しい物として認められているものに就いて、更に語る時である。この場合は
何か新しい見方から、更にその美しさを裏書きするような性質がないと意味
が薄い。既に理解されている点を、只繰返して云うだけでは無駄である。理
解が一層新鮮か深いかでないと、言い方も死んでくるだろう。だがそれを一
度見直して心に把むものがあれば、それによって美しい物がいやが上にも輝
くわけである。私達はそれによってこの世を更に美しくさせることが出来る。
だが、この世には見失われている美しいものが沢山にある。特に或時代で
は因襲のために見方が局限されて、当然認めていいものまで認められずにい
る場合が相当に多い。若しそれ等の虐げられたものを、埋没から救い起こす
ことが出来るなら、この世の美しいものの数は限りなく増してゆくわけであ
る。私はかかる道によってこの世を幾分なり美しくしてゆくことが出来るで
あろう。光るものを光らせないのはこの世の怠慢である。
そうして私はどこが美しいか、なぜ美しいか、どうして美しさが生まれて
来たかを事実に即して語りたい。若しそれを明らかにすることが出来たら、
納得してくれる人が出るであろう。そうして一つのものの発見は必ずやその
類を呼ぶだろう。かくして糸で繋がれるように次ぎ次ぎに美しい物が出てく
るであろう。私は一つでも多く、この世に美しい物の存在をはっきりさせて
ゆきたいのである。
私はこの仕事で幾分かは、見る立場から創作的な仕事を成し得るであろう。
兎も角一つの物は産む者と見る者との両親が揃わねばならない。いくら正し
く物を産む人が出ても、見る者が無くばそれまでであろう。この場合直観は
一つの創作をしてくれる。作る者として生まれていない私も、見る側に立っ
て何か創作の役に立ちたい。これが私の念願の一つである。
だがこのことは私にはそう面倒ではない。と云うのは何も精細な知識の準
備が要るわけではなく又時間がかかるわけでもない。観さえすれば事足りる
のである。観るのは一瞬でいい。一瞬の方がいい。印象は最初の鮮やかなも
タシ
のほど慥かである。直観には時間の経過は別に要らない。只前にも書いたよ
タメラ
うに純粋にこれが働くようにしておけばよい。何か迷いがあったり躊躇った
りしては、既に見る資格を欠いて了う。見る前に何か偏見があってはいけな
い。概念的な見方が挿まると不純になって了う。直観をうぶな状態に置けば
間違いはない。普通直観と云うと何か頼りない主観的なもののようにとる人
があるが、主観に堕するのは何か偏見で不純にされている場合に過ぎない。
直観にはまだ主観客観の別はない。それだから直かに見得るのである。直観
とはありのままに受取ることを云うのである。
私の考えでは、実はどんなものが美しいかを物に即して分かることは、考
えに於いて分かるよりもっと大事なのである。なぜなら物に即していないと、
美しさと云うようなことは空漠とした抽象的なものになって了う。美の問題
は美しき物に基礎を置いていい。かかる意味で芸術の歴史は美を理解する上
に重要なものとなってくる。事実の世界を離れては、美の内容は影が薄くなっ
てくる。「かくあらねばならぬ」当為を、事実から遊離したものとして論ず
ることは甚だ危険である。美学は美の歴史即ち美しき物の存在に発足してい
い。美しさが分かると云うことは、美しい物が分かると云うことでなければ
ならない。物の美しさを観ると云うことが如何に肝心なことだかが分かるで
あろう。美しさとは何かと云うことより、どんなものが美しいのか具体的に
分かることの方が、もっと大事なことだと私が云うのはその意味である。
五
それで私の念願は次のように発展してゆく。この世の様々なものに美しさ
を見た時、それ等の美しさに共通する法則を引き出してみたいのである。私
の考えでは丁度自然界が一定の法則のもとに成立っているように、一つのも
のが美しくなるのは法則を踏んで美しくなるのだと思う。その法則が握られ
れば美の世界への理解は一段と深まるであろう。法則であるからには規範的
な意味がなければならない。それによって様々な美の相が解ける筈である。
一枚の絵に潜む美しさと、一個の壷にある美しさと、これを普遍の原理から
解くことが出来よう。
そうすればここに一つの美の標準が捕らえられるわけである。そうして何
が正しい標準か、これがはっきりしてくるであろう。この標準が曖昧なため
に作家も歴史家も批評家も蒐集家も又広く社会も、間違った道を歩むことが
多いのだと思う。それ故私はこの世に正しい美の標準を建てて遺したい念願
にかられているのである。
サキ
私は嚮に私の願望として、造形美の領域では専ら「工芸」を対象としたく、
又そうすべきが至当である旨を述べた。今美の標準を立てたい念願に就いて
も記したが、このことは必然次のようになって来る。美の標準を、ものの工
芸性に求めると云うことである。一般には美術と工芸とは二つの部門に分か
れているが、元来は一つであって、近代にこれが別れたに過ぎない。その結
果後の発生である美術は更に進んだものとして、今日では美の標準を美術に
置くのを習慣とし常識としてきた。しかし私は寧ろ逆に「工芸的なるもの」
にその標準を求めるのが至当であることを明らかにしたいのである。もろも
ろの美に共通する普遍的原理を立てることは、私の願望の大きな一つである。
六
しかし私は只理論的に美に就いて語るだけに止めたくはない。私は進んで
その理論を具体化することに努めたい。そうしてこの具体化に対して二つの
ことを試みたい。一つは美と生活とを一つに結ぶことを努めたい。それは手
近く私自身から出発せねばならない。私は生活に必要な諸々の器物を使うこ
とによって活かしてみたい。見ることから用いることにと転じたい。このこ
とは誰にでも出来るようでいて、不思議なほど行なっている人が少ない。
私は立派な色々なものを有っている人を知っている。自から蒐集家を以て
任じる多くの人々を知っている。それに好んで美に就いて語る人々を知って
いる。しかしそれ等の人々が果たして自分の生活と美とをどれだけ結んでい
るかを省みると、心もとない気がする。牀に美しき品を飾り乍ら、そうして
美に就いて論じ乍ら、見るに堪えざる器物で暮らしている人達が多い。極め
て僅かな注意と金銭とによって、彼の嗜好を充たすことが出来る場合でもそ
れをしない。見るものと用いるものとに連絡が全くないのである。私は如何
にかかる種類の人達が多いかに驚かされる。私は器を正しく選び正しく使っ
て見せることが、どんなに現状に於いて必要なのかを痛感する。何故なら世
界を少しでも美しくしたいと云う私の願望に対して、世界の器物の大部分を
占める日常の用品に、人々が殆ど無関心であると云うことは黙過することが
出来ないからである。
見ることを知って、用いることを知らない人の通弊として必ず二つのこと
が付随する。その第一は、かかる人々の物の見方に限って、美しいものと醜
いものとの混雑がある。言い換えれば標準が曖昧である。ものが見えたら、
用いるものも見えている筈である。第二には美しいものを結局骨董として取
扱って了うに過ぎない。そのために生活と美とは益々没交渉になってくる。
だが安全にこう云えよう。用いることを知らずば、真に見ることをも知らな
いのであると。なぜなら用いる時以上に、物を正しく見得る場合はないから
である。私は私の生活で美と用との関係が如何に重要だかを語りたい。これ
は千万の言葉よりも、もっと雄弁に美を物語るであろうと思う。私は私の生
涯を通じて、生活を離れて美への理解は無理なのだと云うことを示したい。
もとよりこの願望は、多くの人達から幾度となく繰返されたであろう。そ
のうち最も顕著なものは茶道である。茶道は美と生活とを如何に結ぶべきか
を教えている。茶人は最も深く美の分かる筈の人達である。
だが悲しい哉、茶祖の精神が忘れられてから長い時がたつ。今日の茶道は
只形式として活き残っている。その儀礼の方面に至っては今日でも尚、修練
をつんだ幾多の人がいるのを知っている。しかし驚くべきことには、茶会が
真に美しい器物で行われることは殆どない。九割九分までは見るに堪えざる
器物を平気で用いている。美しいものがあればその中に偶々混っているに過
ぎない。茶人ほど器物が見える人は無い筈であるが、同時に茶人ほどひどい
器物を使う人間も亦無いと云う方が真理である。ものへの見方が形に捕われ
ている点でひどいものである。世界のうち最も美しき器物が茶器だと云い得
るなら、最も醜き器物も亦茶器だと云うことは、否定出来ない真理である。
私は茶道の革命があって然るべきを想う者の一人である。出来ることなら私
は新たな「茶」を行いたい。
しかしそれは何も古い形式を固守する意味に於いてではなく、精神を厳守
する意味に於いてである。既にある抹茶道に於いてこの精神を再起すること
も一つの道であろう。だが何も抹茶に限ったことではない。番茶に於いてで
も茶道を建て得るであろう。否、日常の生活に於いて茶を活かすことを最も
行いたい。今の茶人のように、「茶」が茶室に限られ、日常の生活に「茶」
が無いのはうそである。禅が禅堂に限られては空禅である。行往坐臥凡て禅
の境地であって然るべきである。
七
私は私の考想を具体化する道として、第一に生活と器物との交わりを深め
る道に出たいことを述べたが、第二には正しい器物を産む道へと出たい。私
は作家として生まれてはいない。だが三つのことに於いて、産む世界を守り
得るであろう。一つは正しい作家を見出すことである。二つは今も正しく作
られている地方の伝統的民芸を紹介し守護することである。三つには新しい
創造的な民芸の運動を興すことである。
物を見出すことは、まだ機会に恵まれよう。埋もれた幾多のものがあると
考えられるからである。だが人間を見出すことは遥かにむづかしい。若し将
来を約束する作家を見出し得たら、吾々の幸福は共に大きい。だが因縁が充
たなければ相逢う折りはない。それに正しい作家が極めて少ないのは誰も知っ
ている。それに正しい者は多くは匿れている。自己を名のる者はとかくあぶ
ない。それに人間は複雑である。見出し得たとて、中途で挫折しないと保障
することは出来ない。いい作家を見出すことは寧ろ恵みであろう。だがこの
ことに対して常に準備することは私達の義務だと思う。私はよい作家を見出
すことを生涯の幸福な仕事の一つに数えたい。私はその見分けに対して敏速
であることを念じる。よい作家への弁護は、この世を美しくすることへのよ
い支度である。
次に私は現に作られつつあるいい伝統の品を守護したい念願である。古作
品を愛し讃えることも悦びであるが、それは寧ろ安楽なことだと云っていい。
又容易なこととも云えるであろう。併し作られつつある地方の新作品への注
意は、社会的には一層重大な意義が伴う。なぜなら単に作られたものではな
くして、作られつつあるものだからである。又尚も作り得るものだからであ
る。私は美の世界を過去に認めることより、現在に認めることを一層の幸福
に思う。そうして将来にもそれを保障し得るならこの上ない悦びではないか。
中には「時代おくれ」と謗られるものもあろう。なぜなら用途が古く、作り
が余りに誠実だからである。利の前には何ものをも犠牲にする現代のやくざ
なものの前に、その姿は余りに利とかけ離れているからである。併し正しさ
を有つものがあるなら、その正しさを守護し活かしたいではないか。亡びゆ
くものは亡びていいと云って了えばそれまでであるが、正しさばかりは続か
せたいではないか。現代の用途に即しないと云い棄てるかも知れぬが、ここ
に用途を創作する者が出てくるなら、甦る道が多々あろう。使えないと云う
言葉を美しい物の前で放つのは、物自身への否定であるよりも、使い得る力
がその人にないことへの肯定とも云えよう。誰でもそれがいつまで続くかを
保障することは出来ない。併し正しいものである限りは、続き得るなら続け
たいものである。これで少しでも健全なものを世に贈ることが出来るからで
ある。
だが、この仕事には限界があり困難が伴う。伝統的なものは或時期に於い
て衰頽を来すのは歴史的に避け難い事実だからである。私達は個人作家の少
数の作に、世界の美を委ねておくわけにはゆかないのと同じように、私達は
伝統的な特殊な作だけに、この世の美を任せておくわけにゆかない。ここで
第三の仕事が吾々に要求される。それは各地に於ける新民芸の振興である。
私はこのことに重大な意義を認めるものの一人である。
在来の品は既に守護さるべき側にあるので、自から運命を切り開いてゆく
だけの勢いに欠ける。私達は進んで新しく産み、道を拓いてゆく側にも立た
ねばならぬ。このことに対して工芸界は色々の道を有つであろう。だが中で
私が活かしたいと思うのは地方的な新民芸である。私の云う民芸とは一般民
衆の使う日常生活の用品であるが、正しい質と懇切な仕事と健康な美とを具
有するものを指して云うのである。利のために虐げられた粗悪な不誠実な又
病的な工芸は当然避けなければならない。又産業として発展し難い豪奢な錯
雑な、僅かより出来ない工芸美術品も避けねばならない。とかくそれ等の道
が、美に対しても背く道であることは、私のしばしば主張した所である。私
は能う限り一般の家庭に適うような健康な日常品を増やすことに努力したい
のである。この場合、地方に残る伝統がどんなに役立つことか。
私は次のような反対をしばしば耳にする。かかる民芸に志したとて、要す
るに今の大衆の生活に応じるものを作ることは出来ず、少数の同感者の手に
渡るに過ぎないと。併しその抗議は、道徳家や哲学者や宗教家に向かって、
君達が如何に繰返し説教するとも、世界の大部分の人は風馬牛である、と云
うに等しい。私達は社会人として為すべきであると信じることを為すのであっ
て、只結果から考えて行為するのではない。かかる批評は人間の意志を否定
するにしては余りに力が弱い。私は信念に基づく仕事をするのは、人間の一
生にとって最も為し甲斐のあることであると思う。
まして真に正しい仕事は、たとえ最初誤解や冷遇や反抗を受けるとも、い
つかその波紋を拡げるに至るであろう。そうして人類から正しいものを求め
る叫びは決して絶えることがないであろう。美の王国を来すことは人類の意
志そのものであると云わねばならない。
(打ち込み人 K.TANT)
【所載:『工芸』 25,26,27号 昭和8年1~3月】
(出典:私版本・柳宗悦集 第6巻『私の念願』春秋社 初版1978年)
(EOF)
編集・制作<K.TANT>
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